こんにちは、みっちでーす♪
コロナ禍が続く中、久々に観直したのが映画『海街diary』です。
この映画、初公開時にも観に行って感動したのですが、いま改めて観ると、当時は気づかなかった“空気”や“まなざし”の優しさがじんわり沁みてきて──
この記事では、広瀬すずちゃんの演技と存在感、そして是枝監督の演出の魅力に注目しながら、改めて『海街diary』を語ってみたいと思います。
この記事の目次です
『海街diary』は広瀬すずの原点であり、起点
この映画で広瀬すずさんが演じるのは、亡き父の再婚相手の子ども“すず”。
年齢的にも、役名と本名が同じということもあり、まさに彼女の“スクリーンデビューにして原点”とも言える作品です。
映画の中ですずちゃんが見せたのは、ただの“可愛さ”ではありません。
家族の中に入り込む不安、ぎこちなさ、そしてふと見せる笑顔や沈黙。 そのすべてが繊細で、演技を超えた“存在の力”を感じました。
しかも、サッカーシーンが本当に上手い!(笑) 運動神経も抜群で、スクリーンの中で文字通り“走り抜ける姿”に惚れ惚れします。
この作品でのすずちゃんを観て、「この子は本物だ」と思った観客も多いのではないでしょうか。
実際、是枝監督自身も「彼女のための物語だったかもしれない」と語っており、その特別な存在感が物語全体に流れていることは間違いありません。
女優としての成長曲線:『怒り』『流浪の月』との対比
『海街diary』での広瀬すずは、繊細さと純粋さが際立つ“受け身の存在”でした。
それが後の作品、たとえば『怒り』や『流浪の月』では、より内面の深さと重みを持った役柄を演じるようになります。
『怒り』では、性被害のトラウマを抱えた少女役。『流浪の月』では過去を秘めた女性役。
ここで見えてくるのは、広瀬すずという俳優が持つ“沈黙の強さ”です。
泣き叫ぶでもなく、説明的なセリフに頼るでもなく、目の奥で語る。
この“語らない演技”の力は、『海街diary』ですでに芽吹いていたと考えると── やはりこの作品は彼女にとって、女優としての“はじまり”だったと思わずにいられません。
また、彼女がスクリーンで体現する「少女から大人への境界線」のようなものは、どの作品にも共通して漂っています。
『海街diary』でのすずちゃんは、まだ“演技の核”を言語化できない若さゆえの危うさがありました。 それでも彼女の放つ空気は明らかに特別で、その直感的な存在感が観客を惹きつけてやまないのです。
この“始まりの演技”を知っているからこそ、現在の演技の深みがより尊く見えてくる──そんな女優としての「物語」が、すずちゃんにはあります。
是枝裕和監督のまなざし:社会よりも暮らしへ
是枝監督といえば、『誰も知らない』『そして父になる』『万引き家族』といった、“家族”をテーマにした社会派作品の印象が強いですよね。
でも『海街diary』には、あえて社会の制度や問題から距離を取った“やさしいまなざし”が流れています。
鎌倉の風景、食卓の会話、四季の移ろい── ドラマチックな事件はなくても、登場人物たちの関係がゆるやかに変化していく過程が丁寧に描かれています。
これは制度や家族観を問い直すというより、“日常を愛する”という是枝監督の成熟した視点の表れだと感じました。
『海街diary』では、語らないことで伝える技法が極まっており、観客に“想像する余白”を託してくれる。
その静かな演出は、監督自身が「この作品ではカメラを引いて撮りたかった」と語っているように、 一歩引いた位置から「暮らしの繊細な震え」を見つめようとする意思の表れとも言えます。
ときに過剰な演出や説明で感情を引き出そうとする作品が多い中で、『海街diary』は“観る側の感性”を信頼しているのです。
映像と音楽:語らないことで伝える
構図、光の使い方、人物の距離感── 『海街diary』は全体的に“静けさ”を大事にしている映画です。
セリフでは語られない気持ちを、画面の奥でそっと伝えてくる。
特に印象的だったのは、音楽の使い方。
主張しすぎず、季節や登場人物たちの心の揺らぎに寄り添うような旋律が、映画全体の“呼吸”のように響いていました。
観終わったあと、感情の波が静かに押し寄せてくる──そんな感覚を久しぶりに味わいました。
日常の中にある“決して見逃してはいけない美しさ”を切り取るという意味で、この作品の映像美は唯一無二です。
とくに、窓辺から射し込む光や風に揺れるカーテン、食卓に並んだ梅干しなど、“普通の暮らし”に詩情を与えるショットが豊富にありました。
そして、このような映像の“優しさ”を受け止められる余白が、現代の観客にとってどれだけ貴重か──それを改めて実感しました。
海外での評価:静けさの中の“勝利”
実はこの『海街diary』、2015年にカンヌ国際映画祭に出品され、海外でも高評価を得ています。
米・RogerEbert.comでは、
Kore-eda’s camera observes rather than dictates. The film unfolds like life: with repetition, stillness, and sudden warmth.
(是枝のカメラは指示せず、観察する。映画は人生のように、繰り返しと静けさと突然の温もりをもって展開する)
と称賛され、イギリス『The Guardian』では、
Hirokazu Kore-eda’s film is a quiet triumph of tone and texture.
(是枝裕和のこの作品は、“トーンと質感の静かな勝利”である)
また、米IndieWireではこう記されています。
“A film that refuses to shout, yet resonates deeply. The kind of storytelling that lingers.”
(声を荒げることなく、しかし深く共鳴する──物語が心に残り続ける作品)
激しい展開ではなく、繊細な空気と感情を描く手法は、まさに“日本的な映画”として世界に受け入れられたと言えるでしょう。
演技を越えた“物語性”──広瀬すずという存在
広瀬すずさんの演技には、常に“物語性”が宿っています。 それは彼女が登場するだけで、その場に物語が流れ込んでくるような感覚。
『海街diary』のすずは、まさにその象徴でした。 言葉では語られない想いや寂しさ、まだ名前のつかない感情たちが、彼女の表情や動作を通じてスクリーンに染み出していたように思います。
観客は彼女の目線に引き込まれ、知らないうちに彼女の“気持ち”を共有している。 それは、演技というよりも、そこに“いる”こと自体が語ってしまうような力です。
演じるという行為を超え、「存在で語る」こと。 それが広瀬すずという女優の強さであり、『海街diary』はその始まりだったのでしょう。
是枝監督の演出哲学:観察と静けさの美学
是枝監督は“映さないこと”“語らないこと”で心を動かす、日本でも数少ない“観察型の映画作家”です。
『海街diary』においては、カメラの距離感、登場人物同士の間、セリフの少なさ──すべてが意図的で、過剰な説明や感情の押し付けは一切ありません。
むしろ、観る側に委ねられている部分が非常に多い。 観客は登場人物の“表に出ない感情”を、自分の経験や感覚を通して解釈することになる。
それは、監督が“観る側の知性と感受性”を深く信じている証でもあります。
この信頼関係があるからこそ、是枝作品は“静かなのに深く届く”という独特の美学を持っているのです。
映像の“余白”が観客に与えるもの
『海街diary』は、映像の“余白”が豊かな作品です。 たとえば、窓辺に落ちる光、風で揺れるレースのカーテン、何気ない食卓の風景。
これらのショットは、物語を進めるための情報ではありません。
けれど、その“空白”が観る人に静かな時間を与え、感情の余地を生み出しているのです。
現代の映画では、テンポよく情報を詰め込むことが求められがちですが、 この作品のように“観客に呼吸をゆだねる”構成はとても貴重です。
つまり、観客自身の感情や記憶が入り込める“空間”を与えることで、 映画が個人的な体験として定着していく──これが『海街diary』が色褪せない理由でもあるのです。
まとめ:『海街diary』が今も色褪せない理由
何かを変えるのではなく、変わっていくものを丁寧に受け止める。
それがこの映画の本質だと思います。
広瀬すずさんの初々しさと是枝監督の繊細な視点が融合し、何気ない日常が“特別な時間”として浮かび上がっていく──
『海街diary』は今観てもなお、強く、美しく、そしてやさしい作品でした。
そして、観終わったあとにじんわりと残るのは、劇的な物語ではなく、かすかな余韻。
その余韻が、現実の私たちの暮らしにも小さな“やさしさ”をもたらしてくれるような──そんな映画でした。
すずちゃんのこれからの演技にも、ますます期待しています。
※広瀬すず公式Twitter → https://twitter.com/Suzu_Mg
✍️あとがき:静けさの余韻から、もう一本
『海街diary』を観直して思い出したのが、今は亡きイランの名匠アッバス・キアロスタミ監督の『桜桃の味』でした。
まったく異なる文化圏の映画でありながら、「語らないことで語る」演出と、「静けさ」の中に流れる感情という点では、どこか通じるものがあります。
“言葉にしすぎない”こと、“物語を押しつけない”こと。 その余白の中で、観る人自身が何かを感じ取る──
そんな映画体験が好きな方には、ぜひ『桜桃の味』もおすすめしたいです。 きっと、新たな静けさに出会えるかもしれませんね。
ジャン・ユスターシュ(Jean Eustache)は、1943年フランス生まれの映画監督であり、1981年に自ら命を絶った夭折の天才と評されています。
彼の代表作は1973年の『ママと娼婦(La Maman et la Putain)』で、この作品はフランス映画史において“ヌーヴェルヴァーグの終焉と到達点”とも言われる問題作です。
延々と続く会話劇、恋愛の不毛さ、若者の虚無感──それらを赤裸々に、かつ繊細に捉えたこの作品は、当時の映画文法を根底から揺さぶりました。
そんなユスターシュが「完璧な映画」として称えたのが、ルビッチの『生きるべきか死ぬべきか(To Be or Not to Be)』。そこには、彼自身が到達できなかった“軽やかさ”や“洗練”への羨望がにじんでいるとも読めます。
彼の映画は、ルビッチのように軽やかではありません。
むしろ逆で、重くて不器用で、どこか自傷的です。
だからこそ、彼が“完璧”と感じたルビッチのリズム感や構造美には、強い憧れがあったのではないでしょうか。
静けさを愛しながらも、軽やかさに憧れていたユスターシュ。
そんな彼のまなざしを想像することは、私たちが映画を語るうえで大切な手がかりになる気がします。
──比べるのも恥ずかしいけれど、弟子のビリー・ワイルダーが2流に見えるほどに。
ルビッチの完璧さは、ジャンルも文化も超えて映画人を黙らせてしまう力があるのかもしれません。
そんなことを思いながら、また一本、映画を観たくなりました。