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『今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は』考察レビュー|観客の感情を精密に誘導する傑作!大九明子監督、到達点のその先へ

今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は

はじめに|「恋愛映画」というジャンルを越えて

2025年春、静かに公開された1本の日本映画が、観る者の内側をそっと、けれど確実に揺さぶっていきました。

『今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は』。

※6月23日現在でも公開されています。

恋愛映画の枠に収まりきらず、その枠を内側から突き破っていくような、異様な熱量と精密さを持った作品です。

監督・脚本は、大九明子さん。

これまで『勝手にふるえてろ』『美人が婚活してみたら』『私をくいとめて』など、現代人のこじれた感情や微細な日常の揺らぎを巧みに掬い取ってきた名手ですが、本作は、まさにその到達点と呼べる傑作です。

計算されつくした脚本と、ある種の“実験”と呼べる撮影・編集。

にもかかわらず、作品全体は驚くほどスムーズに、観客の心をさらっていきます。

まるでジェットコースターの乗り方を知っていたはずなのに、途中からすべてを奪われて、気がつけば放心状態──そんな映画体験。

本稿では、この作品がなぜ“とんでもない傑作”なのかを、できる限り言葉にしてみたいと思います。

ただし、内容に関しては一切ネタバレを含みません。

未見の方にも安心して読んでいただけるよう構成しています。

演出の実験性と“凡庸さ”の反転

大九明子監督が『今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は』で見せたのは、あえて“よくある演出”を引き受けたうえで、それを驚くほど現代的な意味へと反転させていく手腕です。

これは過去作『勝手にふるえてろ』や『私をくいとめて』などでも時折見られた手法ですが、本作ではそれが意識的かつ徹底的に行われています。

たとえば、何度か現れる長回しのカット

特に、ある室内シーンから外に抜ける際に、画面が強いハレーションを起こす場面がありました。

普通であればNGカットとされるかもしれない露出の破綻ですが、本作ではその“目の眩むようなまばゆさ”が、主人公たちの心の揺れを象徴しているかのように機能しています。

このような技術的な失調をあえて残す演出は、決して偶然や甘えではなく、「語らないままに、語る」という演出の本質とも深く結びついています。

さらには、突然挿入される極端なズームや、視線の導線を無視したかのような構図のズレなど、観客にとって一見“居心地の悪い”映像設計も、やがてストーリーが進むにつれ、すべてが繋がってくる構造になっています。

まるで観客の身体感覚そのものを映画のリズムに巻き込むかのように、演出、撮影、編集、脚本、そして音のデザインが細密に計算されています。

視野が変わると、画面も変わる──アスペクト比に込められた“見え方”のズレ

『今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は』では、物語の中盤以降、アスペクト比が変化するという演出が用いられています。

これは単なるスタイル上の選択ではなく、視点の内面化と感情の浸潤を映像で語るための、非常に精緻な仕掛けとなっています。

なぜ画面の縁が変わるのか──それは、主人公・小西の“世界の見え方”が変化するからです。

彼が「どこまで見ているのか」、あるいは「どこまで見えてしまったのか」。

それが、画角のわずかな違いによって、観客に伝えられていきます。

この効果は、観ている私たち自身の“視界の輪郭”にもじわりと影響を及ぼし、物語における内と外、主観と客観の境界を揺らすのです。

とりわけ、さっちゃんの長台詞のように、あるシーンを別の視点で見直す瞬間が訪れると、私たちは「あのとき誰の目を通して見ていたのか?」とふと立ち止まらされることになります。

そうした視覚的・心理的な揺らぎの連なりが、作品全体を包む“語られなさ”の美学と呼応しているのです。

映画のアスペクト比という“形式”が、ここでは感情や記憶の揺れを映し出す“心象のフレームとなって、まさにこの映画を“映画たらしめて”います。

キャラクター造形にも込められた「自己防衛」の演出とズレ

自己防衛

本作の主要ビジュアルとしても用いられているこの構図。

晴れた空の下、傘を差す小西と、手を後ろに組み黙って立つ桜田。

二人のキャラクターは、すでにこの時点で“語りすぎている”のです。

小西が差す傘は、ただの日除けではありません。

「心の距離」を確保するための防衛線なんです

彼は誰かと深く関わることに怯え、同時に人を求めてもいます。

一方で桜田は、「お団子頭のほうが友達がいそうで、話しかけられないから」と語ります。

つまり、本当は誰にも近づいてほしくない。

こうした“防衛”のポーズは、二人を結びつけるかに見えて、簡単には共鳴しない。

その微妙なズレが、後半にかけて強烈な余韻を残していくのです。

俳優たちが切り拓く“言葉の余白”──さっちゃんの長台詞が突き刺さる理由

告白

本作には、主要登場人物それぞれに、印象的な“長台詞”のシーンが用意されています。

その中でも、観客の心を最も深く射抜くのが“さっちゃん”の場面です。

このシーンは、逆光の中での長回しという大胆な手法で撮られています。

眩しく白んだ背景の中で語られる言葉のひとつひとつが、どこか“届かない”ようでいて、むしろその距離感が痛みを伴って観客の胸に迫ります。

興味深いのは、あえてそのまま語らせ続けるだけではなく、途中で何度かカットが割られ、聞き手である小西の表情が挿入されることです。

この“視点の移動”によって、観客はただ聞くのではなく、「聞いている誰かの表情」を通して、語られている内容の重みを実感することになります。

また、後のシーンで、この同じさっちゃんの台詞を別角度から撮影した素材が差し挟まれることで、私たちはその場にあったはずの“もう一つの視点”に直面させられるのです。

ここにあるのは、単なる演出の妙ではなく、言葉の限界と記憶の多層性、そして“誰が誰をどう見ていたか”という関係性の揺らぎそのものです。

つまりこのシーンは、

  • 語る者と聞く者の関係性
  • 一度語られた言葉が、別の角度で意味を持ち直す構造
  • 観客が「その場にいなかった誰かの視線」になる感覚

そういった複雑な層を織り込みながら、一つの長台詞が語られているのです。

さっちゃんというキャラクターに潜む感情の繊細さと、演者の息づかい、逆光の空気感、微細なカットの割り方。

すべてが重なり合うことで、「こんなに長く話しているのに、一切退屈せずのめり込んでしまう」という奇跡のような時間が立ち上がってきます。

これは、もはや演技の域を超えた“時間芸術としての映画”であり、このシーンだけで作品全体を語ることすら可能かもしれません。

音で描く心のざわめき──雨音、テレビ、鍵の音…

本作には、セリフ以外の「音」が極めて重要な意味を持って登場します。

たとえば、雨の音、テレビの音量、鍵が鳴る音──それぞれが、物語を直接進めるわけではないのに、感情の推移や関係性の変化を“音”で語っています。

特に印象深いのは、ヒロインである桜田がテレビのボリュームを最大にしてみようと試みること。

彼女はそれを怖くてできないと小西に語りますが、このさりげない会話がラストシーンに向けた静かな伏線となっていることに、観客はやがて気づくことになります。

また、小西がアルバイト先のポストに鍵を入れるときの音──これは物語のある時点から突然、聞こえなくなります。

それは“ある出来事”の後、ポストの持ち主が対処をしたからなのか。

音の有無という些細な違いが、物語の温度や人間関係の湿度を語っているのです。

これらの演出は、まさに“音の演技”と呼べるほど繊細で、観客の無意識に語りかける力を持っています。

聞こえるはずの音が聞こえない。逆に、何気ない音が妙に耳に残る──それらすべてが、感情のディテールとして組み込まれているのです。

湿度と感情のリンク──水のモチーフと銭湯の空気

大九明子監督のフィルモグラフィーを振り返ると、「水」はしばしば彼女の作品に登場するモチーフです。

本作でもその例に漏れず、登場人物2人が働く場所は銭湯。

これは単なる舞台装置ではありません。

“乾いていない感情”──つまり、まだ言葉になっていない感情、冷めきらない心の温度を可視化する装置として、水=湿度が物語に組み込まれているのでしょうか。

「話せないこと」

「言ってしまえば終わってしまうこと」

そんな微細な感情のうねりが、水の中で揺れる泡のように、確かにそこにある──それを映すために、カメラは時に静かに、時に唐突に動きます。

陳腐さを超えたフラッシュバック──“記憶”の重なりが描き出すもの

多くの恋愛映画や人間ドラマにおいて、過去を回想するフラッシュバックは時に「説明のための便利な手段」として使われがちです。

しかし『今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は』では、この技法が決して陳腐に陥ることはありません。

むしろフラッシュバックは、「思い出す」のではなく、“蘇る”という体験として設計されています

過去の映像が差し込まれる瞬間、その記憶は観客の内側にも“作用”してくる──。

つまり、「登場人物が思い出している」だけでなく、「観客も一緒に思い出してしまう」構造になっているのです。

その効果を高めているのが、光のハレーションや露出オーバー気味の映像処理。

これにより、フラッシュバックは単なる過去の再現ではなく、「記憶の中にある曖昧な像」として映し出され、現実との境界がふと曖昧になります。

ここで興味深いのは、アスペクト比の変化と組み合わせることで、「誰が」「どこまでを」「どう見ていたのか」という視点の揺らぎまでもが、映像として浮かび上がってくる点です。

たとえば、ある場面でふと画角が変わることで、「これは小西の記憶なのか?」「それとも、観客が見せられている“誰かの記憶”なのか?」と、語りの主が曖昧になります。

そうして、この映画全体が語られるべき“記憶の地層”を掘り下げる試みであることに気づかされるのです。

視点の帰属と終盤の問いかけ──ラストショットの“まなざし”をめぐって

この映画の終盤、物語のすべてを締めくくるかのように現れるラストショットは、観る者の心に静かに揺さぶりをかけてきます。

明確なセリフや展開によって説明されることはなく、ただある“視点”がそこに差し出される──それだけなのに、不思議と胸がいっぱいになるのです。

そして視点。

ある瞬間、その視点は揺らぎはじめ、まるで“別の誰か”がこの世界を見ているような感覚に陥ります。

もしかしたらそれは、さっちゃんなのかもしれない。

あるいは、彼と彼女をつないだ“記憶”そのものの視線なのかもしれません。

その瞬間、この映画が誰の物語だったのか、という根源的な問いが、観客の胸の内に残るのです。

見るという行為そのものが、こんなにも多層的で切実な感情と結びついている──そのことを、静かに、しかし強く突きつけてくる演出だと感じました。

語り得ぬ“余韻”──ラストシーンと観客の静寂

本作のラストショットは、観る者の胸にそっと何かを残していきます。

その視点が“誰の目”なのか──明言されることはありません。

けれど、それが誰であったとしても、観客一人ひとりの記憶や感情と静かに共鳴してくるような、そんな不思議な映像です。

特筆すべきは、そのエンドロールの時間でした。

私が観た劇場では、最後の一人が席を立つまでに、エンドロールがすべて流れ終わるまでの時間が、驚くほど“静か”に、そして“動かず”に流れていきました。

誰もが言葉を持たず、ただ目の前のスクリーンに残された光と音の余韻を抱えたまま、じっとその時間を受け止めていたのです。

拍手が起きるでも、泣き声が響くでもなく、けれどその場には、明確に“感情の熱”が滞留していました。

これは、映画という体験が「終わった」あとに何を残すのかという問いに対する、ひとつの美しい答えだったのではないでしょうか。

大九明子監督がこれまでの作品で積み重ねてきたテーマや手法のすべてが、本作では静かに、けれど確かな手ごたえを持って結実しています。

その挑戦は決して派手なものではありませんが、細部の一つひとつが実験的でありながら、物語の本質にぴたりと寄り添っているのです。

『今日の空が一番好き、とまだ言えない僕は』──。

この映画は、誰かにとっての「大切な記憶」をそっと掘り起こすような、静かな力を持った作品です。

自分のなかにある“まだ言葉にできていない思い”を、そっと物語に託すように観ていただきたいと思います。

あとがき

私が信頼している数少ない批評家さんがこんなポストをしてました。

この言葉に、私も深く頷きました。

なぜなら、恋愛映画や青春群像劇と聞いて身構えてしまう方ほど、この作品の持つ“誠実さ”や“豊かさ”を体験してほしいと思ったからです。

本作は、甘さや熱さで感情を押し付けてくるタイプの映画ではありません。

むしろ、言葉にならない感情の在り処にじっと寄り添い、「こういう気持ち、あったな」と観る側の記憶を静かに掘り起こしてくれます。

派手な見せ場や展開はなくても、ここには“生きた人間の息遣い”があります。

スクリーンの中の誰かが、もしかしたら数年前の自分だったかもしれない──。

そんな錯覚とともに、じわりと心がほどけていく時間が待っています。

普段、恋愛映画や青春映画はちょっと…と思っている方にこそ、ぜひ観ていただきたい一本です。

この映画は、あなたの“まだ言えない気持ち”を、そっと抱きしめてくれるかもしれません。

🎬 おまけのコラム:蓮實重彦が“手紙”を送った、大九明子という才能

大九明子監督の名が広く知られるようになったのは2017年の『勝手にふるえてろ』からですが、その“見逃していた時間”を悔いた映画人がいます。

それが、日本映画界の批評界における巨星・蓮實重彦さんです。

あるとき、彼はテレビドラマを何気なく観ていて、数十秒でその演出の巧みさに衝撃を受けました。

演出家の名前を調べ、過去作品を取り寄せ、そして──自ら大九監督に直筆の手紙を送りました。

手紙にはこう綴られていたと伝えられています。

「あなたの作品をこれまで知らなかったのは、私の怠慢です」

年齢もキャリアも関係なく、良いものを観たら素直に評価し、謝意を伝える。

蓮實さんはその真摯な姿勢で、大九監督の力量を見抜き、“真の作家である”と評したのです。

80代後半という年齢で新しい才能に出会い、それを受け止め、過去の自分に非を認める。

このエピソードは、大九明子という監督の凄みをまさに証明する物語であり、同時に蓮實重彦という批評家の“現役”ぶりをも示す、感動的な一節です。

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映画の余白のように、読後の言葉が誰かに届きますように。

 

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